北洋漁業の古写真見つかる!《その①》


八木亀三郎の評伝も、ようやく下書き原稿が仕上がり、印刷会社からの初校ゲラ返却待ちです。その執筆と並行して進めなければならなかったのが、亀三郎家と〝親交のあった〟親戚への聴き取り調査でした。過去の調査では、たとえ縁戚であっても、鍵となる情報を得られないケースがあったのです。このため聴き取り調査は後回しとなって、半ばあきらめかけていました。そんななか、昨年末に急展開が見られ、八木本店に勤務していた「八木明」ご子孫様とコンタクトがとれたのです。明家族は、亀三郎家のことを〝八木本家〟と称し、ご子孫も亀三郎に対してフレンドリーな感情をお持ちでした。
タラバガニとカニ缶詰の標本


八木明については、樺太丸の作業風景や八木亀三郎・實通の肖像写真を『漁り工る北洋』(会田金吾/五稜出版社/1988)へ提供した人物として、かねてから注目をしていました。しかし、亀三郎家や八木本店との関係性が判然とせず、誰が子孫であるのかも確定できずにいました。それが昨年末、隣町へ出向く用があり、現地の郵便局に立ち寄ったところ、局長さんから「資料館の反響はいかがですか?」と声をかけられたのです。局長さんが亀三郎に好意的なことが意外で、会話を続けていると、「実は私の祖父が八木明で、母はその娘にあたります」と告げられたのです。これには、思わず歓声をあげずにいられませんでした。面識のある局長さんではありましたが、まさにサプライズでした。このことで、明ご長男の弥五郎氏が大津市にご健在と分かり、以後連絡を取り合うようになりました。

八木明は、升屋新宅・八木弥十郎の次男として、明治31(1898)年に波止浜村に生まれます。新宅は長男の薫明が継いだため、明は旧制今治中学を卒業後、大正12(1923)年ごろから八木實通の専属秘書として八木本店に入社し、實通とともに蟹工船「樺太丸」に乗船することになります。その後、八木本店所有の蟹工船(樺太丸・美福丸)が、昭和工船漁業→日本合同工船→共同漁業→日本水産株式会社へと転属していくなか、明はこれに従事し、八木本店へ蟹漁業の情報を送り続けました。日本水産株式会社総務課長を退職後は、同社の子会社社長を務めるなど、生活の拠点を函館において戦前・戦後の北洋漁業の推移を見続けることになります(子供たちは函館で育つ)。このため、昭和40(1965)年発行『県外愛媛県人の事業と名鑑』には、愛媛出身で活躍する事業者の一人として紹介され、函港作業株式会社社長として掲載されています。


弥五郎氏からは、父・明の略歴や同家の略系図をご教示いただき、所蔵する北洋漁業関係の古写真40点ほどをご提供いただきました。本来はもっと所蔵されていたようですが、母キヨミさんが北海道や愛媛県の研究機関へ提供して数を減らしていったようです。『漁り工る北洋』掲載写真もその一部と思われ、著者が所蔵するにはあまりに不自然な、八木本店首脳陣しか持ちえない写真がその中には含まれていたのです。漁業の作業風景では、同じアングルから撮影したものを弥五郎氏もお持ちでした。以上のことから、同著掲載の樺太丸関係の写真は、本来は明が撮影し、所蔵していたことが分かったのです。また、樺太丸以外にも、大正11~13年ごろの樺太タムラオ・八木漁場でのサケ・マス漁業の写真も確認できました。



樺太丸で撮影した写真(国会議員視察の昭和5年か)

明は〝八木本店従業員たりし者〟で構成される「八木会」の幹事だったことが分かっていて、八木本店の首脳陣といえる存在でした。八木亀三郎の寄進で昭和12(1937)年に竣工した、函館市船見町〝称名寺観音堂〟の落慶法要には夫婦で参列しています。この落成にあたっては、弥五郎氏よりご提供いただいた古写真によって、病気療養中の亀三郎の代理として養女の千菊(亀三郎長女・房廼の子で、本当は孫)が参列していたことも分かりました。これは、千菊の容姿を知る〝大変貴重な写真〟で、評伝をまとめるうえではとても重要な情報となりました。まさに、パズルを完成さるうえでの〝要のピース〟といえるものでした。 【②につづく】