八木漁業解散(元従業員から届いた礼状)
八木本店にとって、昭和5(1930)年度は受難の年となります。沖取工船の不漁と浜口雄幸内閣の金解禁政策の影響で、秋から会社の整理に取りかかります。新しく見つかった資料には、この整理にかかわる資料がまとめて保管されてあり、従業員がせわしく事務作業にあたっていた光景が目に浮かぶようです。事情を詳しく知らない人は、八木本店が倒産したと錯覚するほどでした。
一方、八木本店に倒産されて困るのは、担保物件をもたない函館製網船具・北海製缶・函館船渠らの債権者です。しかし、債権者らは八木父子のこれまでの功績・温情に鑑み、八木を救済しようと、最大の債権者で担保物件(船舶・漁業権・缶詰)を有する三菱商事に打開策を提案します。その内容は、債券を株式にかえて新たに「八木漁業株式会社」を設立し、八木實通にはこれまで通り経営に参画してもらうというものでした。八木父子と親交の深い三菱商事はこれを了承し、昭和6(1931)年初めには新会社の設立へといたります。
しかし経営は好転せず、昭和6年秋に八木漁業と日魯漁業(現、マルハニチロ)が合併することで太平洋漁業株式会社が誕生します。そして昭和7年の漁期終了後に日魯が八木漁業の持ち株を全額買収することで、太平洋漁業は日魯の直系企業となります。また、その他の中小の漁業者も吸収するなかで、昭和10(1935)年には母船式鮭鱒漁業は日魯に一本化されました。
なお、昭和工船・日本工船・東工船は昭和7(1932)年4月に統合されて日本合同工船株式会社となり、同社は昭和11年9月に共同漁業株式会社・日本捕鯨株式会社との合併をへて、翌12(1937)年3月に日本水産株式会社となりました。こうして、北洋漁業は企業合同を繰り返すなかで、〝鮭は日魯、蟹は日水〟といわれるようになっていきます。
では、八木漁業会社の終焉の様子はどうだったのでしょう。新しく見つかった資料には、昭和8年春(3~5月)の礼状がまとまった数見られます(約50通)。これは、八木漁業会社解散にあたって従業員らに分配した慰労金・退職金に対するものです。元船員やその家族らが、八木父子に対して〝莫大なる慰労金〟〝感涙〟〝多額の御手当〟などの形容語で感謝の言葉を綴っています。同社の経営自体はよくなかったことから、株の売却利益を分配したものと推察されます。内容を見ると、再就職(転船)先まで斡旋されたものもいて、贈与されることに感謝・恐縮する様子がうかがえます。この模様は、平成30(2018)年6月30日付の毎日新聞記事(愛媛版など)に紹介されました。その紙面で、『蟹工船興亡史』の著書がある宇佐美昇三氏は「蟹工船の労働条件は現代から見て劣悪だったが、小林多喜二の小説『蟹工船』から想像されるような経営者や監督が全てではない。多くの人が十分に慰労されたと感じたことが礼状から推察される」とコメントを寄せています。
小説『蟹工船』のイメージを変えることができる唯一の実業家が、クリスチャンでもあった八木亀三郎・實通父子なのかも知れません。

