蟹工船・八郎丸の缶詰製造日誌
大正13(1924)年から昭和2(1927)年まで、株式会社八木本店が日本一の蟹缶詰製造量を誇ったことはよく知られていますが、このときに活躍した2隻の蟹工船が樺太丸(2,831総㌧)と美福丸(2,558総㌧)です。しかし、昭和3年以降の動向については、同業他社との合併や水産業界自体の再編で把握しづらいものがあります。
昭和2(1927)年11月、八木本店の蟹工船2隻(樺太丸・美福丸)が同業5社と合併して昭和工船漁業株式会社(資本金200万円/6隻)を設立し、八木實通が昭和工船の重役に就任します。一方、同月にライバルの日魯漁業・共同漁業らも同業6社と合併して日本工船株式会社(資本金300万円/10隻)を設立し、蟹工船業界が再編へと動き始めました。
新しく見つかった資料には、八木本店所有の蟹工船・八郎丸の『製造日誌』(昭和5年)があり、弊館で現在展示中です。八木本店では昭和4年に八郎丸(2,805総㌧)、同5(1930)年には神武丸(5,168総㌧)という蟹工船を所有し、昭和工船とは別に自社で出漁を行っているのです。日誌は本船で記録したと思われ、記載期間は昭和5年4月17日~10月2日までとなっています。日々の天候、作業時間はもとより、タラバガニの漁獲量、缶詰製造量(函)、商品の肉質なども記され、多い日は1日で1万疋以上を漁獲し、約半年間の累計で93万疋余りを漁獲したことが分かります。
しかし、この製造日誌が作成された年、八木本店は大きな負債を抱えることとなり、秋に会社整理に向けた事務処理を行っています。負債の原因は、沖取漁業(母船式鮭鱒漁業)の失敗と浜口雄幸内閣の金解禁政策が大きく影響したようです。金解禁によって為替が円高となり、輸出産業の食料缶詰は大きな打撃を被っています。新しく見つかった資料には、本店整理に関わるものを多く見かけましたが、不思議なことに倒産にはいたっておりません。これを倒産と記す元従業員の備忘録も存在しますが、実態はどうも違うようです。債権者らが債権を株式に替えて、八木を救済するため「八木漁業株式会社」を設立し、實通や三浦玄三らがこれまで通り水産事業に関わることになりました。
